トピックスを掲載します。

トピックス(2013~  )

第6回電苑クラス会(電気情報工学科合同クラス会)開催 [2015/05/03]

5月3日に第6回電苑クラス会を岐阜キャッスルインにおいて開催しました(参加者:91名)。

第一部は、今年3月に退官された稲葉成基先名誉教授から「人生そのものであった岐阜高専の三九年間」と題して講演をしていただきました。また、所哲郎教授からは「岐阜高専50周年関連情報の紹介~次なる半世紀に向けて~」と題して母校の地域連携・国際化・高度化への取り組みとその中でのOBの活動・活躍を紹介していただきました。
電苑クラス会01 電苑クラス会02


第二部は、4月から新役員となった会長:三辻重賢(E03)、副会長:田中逸郎(E08)、会計監査:堀田律子(E11)、事務局長・会計:熊崎裕教(E12)の各氏の紹介と三辻会長からの挨拶、北川恵一名誉教授の乾杯でなごやかな懇親会が始まりました。
電苑クラス会03 電苑クラス会04


今回の電苑クラス会では、電苑同窓会の活動・発展に貢献されてきた下記の方々に盾と賞状を贈り表彰しました。
【電苑特別功労賞】
越川純男名誉教授・・・本同窓会の設立から維持・発展に対して半世紀にわたり多大な貢献
高津正吉(E01)・大野幸一(E01)・奥野泉(E02)・・・母校や地域に対して本同窓会の範となるべき多大な貢献
【電苑特別功績賞】
武井祥平(E37)・後藤太一(E39)・・・若手OBとして本同窓会の範となるべき活躍で母校と電気情報工学科の栄誉を高めた功績
電苑クラス会05 電苑クラス会06



電苑クラス会07 電苑クラス会08
【歓談風景】【恒例のじゃんけん大会】
電苑クラス会09 電苑クラス会10
【司会の大江さん(E02)と坂さん(E02)】【グッズ販売】

「アクティブラーニング」授業実践報告会開催(岐阜高専) [2015/03/16]

AP報告会記事 岐阜高専は、H26年度文部科学省「教育再生加速プログラム(AP)」事業に採択され、能動的な教育(アクティブ・ラーニング:AL)と学修成果の可視化・定量化に取り組んでいます。
この岐阜高専におけるAP事業の初年度の成果報告会が3月16日に岐阜大学サテライトキャンパスで開催されました。

(右の記事は2015/3/17の中日新聞)

この岐阜高専の取り組みは、「シニアOBとの連携による推進」もテーマにして、企業等での経験からの提案を行っています。この事業に関心のある同窓生の方は下記のHPをご覧の上、岐阜高専へ問い合わせください。

*岐阜高専のAP事業については、こちらの岐阜高専HPをご覧ください。

岐阜高専創立50周年記念植樹(若鮎会) [2015/03/06]

岐阜高専創立50周年記念事業として、若鮎会が3月6日に各務原市内の木曽川河畔に記念植樹を行いました。
当日は1、2期の卒業生中心に40名ほどの方が参集し、約700mに渡り40本のヤマモモの木を植えました。
本事業は、50周年記念事業引継特命委員会(実行委員長:E01高津正吉氏)が各務原市や地元の皆様などと調整等を進めて実施したものです。
記念植樹

稲葉成基先生最終講義 [2015/03/05]

稲葉成基先生の定年退職を前に、3月5日に多目的ホールにて「高専における教育・研究-駆け抜けた39年ー」と題した最終講義が行われました。
稲葉先生最終講義1 稲葉先生最終講義2

防災講演会「想定外を生き抜く力~津波てんでんこに学ぶ防災の本質~」の開催(若鮎会) [2014/11/28]

若鮎会は、岐阜高専の創立50周年記念事業として、本巣市内のボランティア団体「もとすつなぐ会」と協力して防災講演会を11月28日に開催しました。
講演者の片田敏孝氏は岐阜高専・土木工学科14期生です。
当日は、会場の糸貫ぬくもりの里のホールに320名もの方が参加され片田教授の熱意ある講演に多くに方が心を打たれていました。 防災講演会

「平成25年度国立高等専門学校教員顕彰」において所 哲郎先生に理事長賞決定

国立高等専門学校機構理事長賞の受賞通知がありました(2014/3/31)。この表彰は下記のように、「シニアOBとの連携活動」が高専機構にて評価されたものです。
[顕彰題目] 高専教育の高度化と自立的地域貢献の推進
[業績概要] 高専創設時のシニアOB・OGの企業退職後を踏まえ,母校に対する愛校心と卒業後40年間にわたり蓄積したもの作りや企業経営の経験を,高専教育の高度化に結びつけると共に,自立・継続可能な地域企業人材育成塾の開催等の仕組みを確立した。これらによる,高専教育の高度化と地域に根ざした社会貢献により,高専の社会的プレゼンスを大いに高めた。
(上記は、国立高等専門学校機構からの受賞通知より)

『電苑2012(CD)』発行 [2013/03/25]

『電苑2012』を2013/03/25に発行し、全会員に送付しました。
お手元に届いていない場合は、こちらから事務局へ問い合わせください。
『電苑2012』の内容は、2013/09/01以後からこのHPの電苑バックナンバーから見ることができます。

『電苑2012』に掲載された記事から、創立50周年に年にちなみ1期の先輩からの寄稿を以下に再掲します。

3.11を振り返る  (E01)高橋明憲 [『電苑2012』より]

3.11は、これからの日本の行方に大きなインパクトを与えている。その体験を通して、防災への意識を新たにするとともに、どのように備えていったらよいか考えてみたい。
**********************
平成23年3月11日金曜日は、自宅(川崎市のマンション)近くに新たにできた商業施設に大手家電量販店がオープンする日である。日本経済はリーマンショックからやっと抜け出し、消費マインドの高まりがそれを後押ししているように感じられる。
これからは魅力のあるエレクトロニクス商品が出る度にいち早く現物を触ってチェックできると共に、最新の業界動向情報を店内で得ることができるとワクワクしていた。午前中は丹念に売り場を回り、これから購入したい商品リストを描きながら帰途についた。
昼食後、デスクで調べものをしていると、14時46分椅子から伝わる微振動を受け「何か変だな」と感じるやいなや激しい揺れに変わった。本棚のある狭い部屋は危険と察し、すぐに比較的広いリビング・ダイニングに移動した。普段の地震ならば10秒程度で収まるのが普通だが、今回はそのような気配がない。途端に心臓がパクパクし、ガタガタ言い続けるダイニングテーブルに必死につかまりながら、その揺れがもし激震に変わったときどうすればよいかを考えていたが、せいぜいテーブルの下にもぐる程度のことしか頭には浮かばない。外を見ると、電柱は揺れそれに架かっている電線が波打っており、尋常ならざる状況にあることが認識できた。その後も激しく揺れ続いたが、大きな揺れに変わることはなく、2分位経ってやっと終息し安堵感に包まれた。その長かったことは深く体に刻み込まれた。各部屋をチェックすると、棚の上部にある小物はほとんどが床に落下し散乱していた。
すぐに自宅外に出ている家族の安否を携帯電話で確認した。時間帯によっては接続に時間がかかる場合もあったが、都内に仕事に出ている二人は帰宅困難者となった。携帯電話の電池残量が残り少ないということで十分な話はできなかった。
同時に当住居地区は停電になった。マンションのため、水道水、トイレ、エレベータ、TV受信、インターネットすべてが使用不能、ガスは震度5強だったため供給停止となり、近くのスーパーも臨時休業でライフラインが切れてしまった。情報は、携帯ラジオ、食事は携帯ガスコンロによるカップ麺、暖かい飲み物、貯蔵カンパンのみ、明かりは懐中電灯という生活である。
絶え間なく来る余震の中、携帯ラジオのニュースを聞いていると、東北地方が大地震と津波で大被害といっており、大変な事態になっていることはわかった。やっと23時頃停電が解消し、TVを点けたところ、あまりの惨状に息を呑んだ。
翌朝の新聞(写真)を読んで、日本に大変なことが起きたことを強く実感した。地震、津波、更にそれらが原因で起こった原子力発電所事故が日本を襲ったのである。
3.11新聞
(写真:3月12日の朝刊、地震の規模は後にM8.8→M9.0に訂正された)
予期せぬ事態に対しては、順序だった思考はなかなかとれない。本能におもむくままの行動になってしまう。ここで、改めて日頃から災害への備えが重要になるわけである。
今回のケースでも教訓はいろいろ得られた。列挙すると、次のようになる。
情報関係では、①携帯ラジオは必需品である。②携帯電話の充電は電池でもできる付属品を準備しておく。③タブレット端末など電池駆動の機器は有用になる。ライフライン関係では、①飲料水を確保する。②懐中電灯用の電池を十分確保する。③簡単な調理に携帯ガスコンロは必須である。④停電時トイレの水が出なくなる。風呂水をそれに充てるため、落とさないままにしておく。
さらに、実際の災害時72時間(3日間)サバイバルのために必要とされる持出し用リュックサックの中身を再点検することも忘れてはならない。
***********************
平成24年10月中旬、塩田泰仁君(E01)と一緒に東北(宮城県)を訪れた。
石巻市にある石巻ブロック災害廃棄物処理業務JV事務所に勤め災害処理に奮闘している瀬戸次男君(1C)の案内で、処理施設を見学するとともに名取市閖上(ゆりあげ)、貞山運河水門工事現場跡(瀬戸君が3.11大震災時にいた現場)、宮城野区荒浜、多賀城市内、石巻市立大川小学校(津波で生徒・先生が多数犠牲になった)、塩釜市内の各地を見て回った。現地で自然のすさまじいパワーとその怖さ、復興に向けたさまざまな取り組みをしっかりと見ることができた。
そして、災害にあっても生き抜くには、正確な情報を迅速に掴み、その情報に適した計画P(Plan)を選択し、これを行動D(Do)に移し、評価C(Check)をきっちり行って改善すべきところを直し(改善A(Action))、次の計画に結びつけるという、マネジメントでお馴染みのPDCAサイクルを回す訓練を繰り返し徹底して行うことが肝要と再認識させられたのである。

私の退職後の生き方・暮らし方  (E01)加納静夫 [『電苑2012』より]

1.退職後の焦燥感
 NTT(入社当時は日本電信電話公社)に永年勤め、55歳で電設資材メーカーのマサル工業に再就職、満60歳を契機に依願退職し、また、NTT子会社(身分は特別社員、現在特別社員制度は廃止)に再々就職しましたが、私が担当していたプロジェクトが会社都合により中止、これを機会に社会貢献・ボランティア活動をやろうと平成22年3月退職、通算43年間のフルタイム・会社人間に終止符を打ちました。
 さて、社会貢献・ボランティア活動をやろうと啖呵を切ったが、全く当てはなし。何しろ世渡りが不器用な人間、地盤・看板・鞄もない、すぐ何かをやれる訳がない。少しは環境関係をやっていたが、・・・。
 社会貢献・ボランティア活動で持出しばかりでは長続きはしないし、やる気もでない。永年の会社人間からの解放感、自由勝手に好きなことをやろうという喜びが全く感じられない、これから〔サンデー毎日〕の暮らしを想像すると寒気がする。
 毎日重たい鞄を持ち通勤していた姿が懐かしい、焦燥感が漂う。どうも後ろ向きの考えが先に出てしまう。そうだ、もう少し環境関係について勉強をしようと、「なごや環境大学」(名古屋市が開設しているキャンパスの無い大学)の事務局に相談。日本福祉大学の千頭教授が主宰している“50年後の環境都市なごや構想”の検討会を紹介されたので、オブザーバーとして参加した。
 その後、地元に一般社団法人M-EMS認証機構(三重県版環境マネジメントシステムの審査機関)の専務理事が居ることを知り、環境関係への関りについて相談しました。
 開口一番、「NTTで40数年働いて来て、世の中に役立つ知識・経験などをお持ちでしょう」と言われ、会社を離れたら一体自信を持って何が出来るであろうか、正直当惑しました。
 NTT在職中は、ISO推進室でISO9001(品質)、ISO14001(環境)、ISMS(情報セキュリティー)を取組みましたが、退職後に審査員を目指す考えは全くありませんでした。
 やはり、今できることは環境問題・環境マネジメントの道であると方向を定めました。
2.少しずつ視野が広がる
 その後、専務理事から「内閣府のカーボン・カウンセラー養成講座」の募集があることを知らせてくれました。
 小規模事業所、サービス業、農林漁業者などに対する地球温暖化防止対策・省エネルギーを提案する人材がいないことからカーボン・カウンセラーを養成するもので、内閣府の地域社会雇用創造事業として10億円の予算で1,000名養成する施策です。
 社団法人カーボンマネジメント・アカデミーが実施機関となり、逐次全国主要都市へ展開して講座を開設していきますが、京都会場は2番目でした。
 平成22年8月末から10月上旬の6週間、京都市(京都リサーチパーク)の会場に関西圏の30名(製造メーカーのOB、大学教授、就職先がない大卒者など)が集合。
 京都議定書、温暖化のメカニズム、エネルギー(原発事故前のため、原発がコスト・CO2排出量などから最も有利)、環境マネジメント、温暖化防止策・省エネなど盛り沢山の講座内容で、毎日理解度の試験があり、講義中は必死、また、毎週の出席率80%以上が合格ラインでした。国の施策のため、受講料及び宿泊費の個人負担はなし、交通費も支給、学生気分でラッキーでした。
 養成講座修了時、今後の進路について個人面談があり、環境マネジメント関係に進むことを約束しました。
 三重県庁地球温暖化防止活動推進室へ「カーボン・カウンセラー養成講座」の修了報告を行った際、一般社団法人 M-EMS認証機構で審査員を募集しているので、応募するように勧められました。
 M-EMS認証機構 専務理事から“環境マネジメントシステム審査員補”の資格があれば採用するとの返答があり、早速、川崎市にある研修機関で環境マネジメントシステム審査員養成講座を受講(平成22年12月)。実際に審査員になるには環境マネジメントシステム審査員評価登録センターへの手続きが必要で、岐阜高専の最終学歴証明書、NTT&マサル工業の経歴証明などを取り揃え提出、判定委員会を経て、環境マネジメントシステム審査員補に登録されました。(平成23年2月)
 今度は、一般社団法人M-EMS認証機構の審査員研修があり、やっと審査員に登録されました。その後、約1年間審査、コンサルの実績を積み重ね、平成24年7月に主幹審査員になりました。
 環境マネジメントシステムは環境影響評価、環境法令・条例「廃棄物の適正処理及び清掃に関する法律、騒音・振動規制法、労働安全衛生法(有機溶剤)など」、環境改善目標を設定し、PDCA管理によりパフォーマンス成果を上げる仕組みです。
 M-EMS認証機構の審査員は低賃金のため、年金受給者が大半ですが、仕事ができる喜び、組織に所属している安心感から生き生きしている人が多い。
 三重県版環境マネジメントシステムを小規模事業所への導入が目的のため、認証取得費用が桁外れに安く、また、小規模事業者が多いので、審査中でもコンサル・手助けをする場合も多く苦労します。
 現在、私は約30社(市民病院から数名の事業所まで)を担当していますが、何をサポートすれば事業者に満足していただけるかを模索中です。
 また、(財)省エネルギーセンターの「省エネルギー普及指導員」及び三重県「地球温暖化防止活動推進員」として地域社会・学校での省エネ講座、「環境学習サークルみえ」では小学生への自転車発電・風力発電工作教室などを行っています。
事例1 「小学校への出前講座」
出前授業  いなべ市の小学校5年生を対象にした省エネ出前講座。地球温暖化のメカニズム、エネルギー源、学校及び家庭での省エネ・節電の取組み(総合学習 45分)(省エネ普及指導員)
(写真:小学5年生への出前授業(2012年7月))
事例2 「家庭の省エネ診断」
 家庭部門のCO2排出量が約34%増加(1990年比)していることから、一般家庭のエコロジー度の分析、CO2削減の提案(環境省 委託事業)
事例3 「小学生への自転車発電など」
 小学生に対し、エネルギーの大切さ、地球温暖化防止を学習するために、自転車発電の体験、白熱電球・蛍光灯型電球・LED電球の比較実験などの実施(環境学習サークルみえ)
3.健康第一の暮らし方
 日々の生活が少し安定すると気持ちに余裕が出てきます。これからは健康第一に、家族に迷惑を掛けまいと今まで以上に考えるようになりました。
 趣味といえば、海つり、多肉植物の栽培くらい、ゴルフは最近やらない。金も掛からず、年齢相応にやれる運動はウオーキングしかない。(散歩ではありません)
 平成23年8月頃から毎朝ウオーキング(約2時間)を開始。しかし、単に歩いているだけでは目標も無いし、面白味もない。
 日本最大のウオーキング大会の日本スリーデーマーチ50km*3日間(平成23年11月4日~6日東松山市)を知り、挑戦しようと毎日猛トレーニング。桑名の自宅から御在所の湯の山まで、片道25km、リックを背負い、早朝に出発、昼頃湯の山へ着き、昼食、帰りもウオーキングで自宅まで。 
スリーデーマーチ完歩  このコースを3回行い、本番の日本スリーデーマーチに参加、東松山市民体育館で寝泊まり。お陰様で、毎日50kmコースを9時間のウオーキングし、3日間完歩しました(写真:日本スリーデーマーチ(2011.11.4~6))。
 ウオーキングは生活習慣病対策、肥満防止、美容などに効果があることからウオーキング人口は3,000万人とも、4,000万人とも言われています。  また、今の子供はモータリゼーションの社会、飽食時代に育っているので歩くことが少なく、体力が劣っているので、ウオーキングの楽しさを教え、健康増進に心掛けてもらおうと日本ウオーキング協会の「公認ウオーキング指導員」を取得しました。
 ウオーキングといっても、結構中身が濃い運動です。各地でウオーキング大会が開催されていますが、距離によるコース設定が幾つかあり、幼稚園児から80歳、90歳位の高齢者までが自分適したコース、歩行速度で楽しんでいます。 
 私の平成24年ウオーキング大会は10県(京都、三重、愛知、岐阜、長野、富山、滋賀、福井、奈良、和歌山)12大会に参加しました。
 最終的には47都道府県に自らの足跡を残すこと、将来、孫(現在4歳、1歳)と一緒にウオーキング大会に参加することを夢見ています。
4.あとがき
 団塊世代の人間は生涯大集団のうねりの中で生きており、要介護となる時期が最後の難関・狭き門と想定されます。
 昨年、介護保険被保険者証を受取り、いよいよ前期高齢者の仲間入りかと寂しさがありますが、何事も諦めず目標を持ち、美味しい野菜作りが閉じこもり・寝たきりを防ぎ、10年日記(現在、3冊目)を記すことが認知症対策となり、磊落な生き方により介護のお世話にならないことを願っています。

中部生産技術研究所“ものづくりコンサルタント”  (E01)大野幸一 [『電苑2012』より]

大野卒業生を電苑編集部からインタービューにお邪魔します。卒業生の皆様、ご協力をお願いいたします。今回はサンプルとして自作自演で本人が記者を務めました。
(写真:自宅兼事務所にて(2007年))
Q.ものづくりコンサルタントとはどのような仕事ですか。
A.企業へお伺いして、生産性改善や原価低減の仕方を教える仕事です。公開研修会と称して、セミナーや講演を依頼されることも年に数回はあります。

Q.どのような企業がお客様ですか。
A.製造業がメインですが、どのような業種でも可能です。従業員200名から1000名ぐらいまでの中規模な会社が多いですね。この規模の会社は人材が不足しています。

Q.営業地域はどこですか。
A.全国どこへも出張しますが愛知、岐阜、三重が多いですね、最近は中国の上海、天津へも出かけています。
天津研修風景
(写真:企業の管理職を対象にした中国天津での研修風景(2006年))
Q.どのようなご苦労がありますか。
A.物事を教える仕事ですが、教える前の段階として教える相手の「信頼を得る」ことが重要です。まずスポンサーである社長の信頼がないと受注できません。この時には経営者の立場で考えて提案をすることが求められます。コンサルティング契約を締結した後は現場の人や中間管理者の皆様の立場に立って話をしたり行動したりします。経営者と労働者の両方の立場をバランスよく見て仕事を進めることが難しいですね。

Q.この仕事はいつ創業されましたか。
A.ソニー・タイに赴任している時、会社が募集していた早期退職制度に応募して2002年に53才で退職しました。その後コンサルタントの仕事を始めましたので、もう11年コンサルタントの仕事をしています。
感謝状 工場診断風景
(写真左:お客様から感謝状をいただく(2007年)、写真右:工場現場診断風景(2006年))

Q.高専卒業後はどんな会社に就職されましたか。
A.岐阜高専を卒業後に就職した日本ビクター㈱(名古屋特機営業所)に4年務めました。4年で転職しソニーへ中途入社しました。転職はセールスではなく技術関係の仕事をしたかったことと、自宅近くに工場ができたことで通勤に便利だったことです。入社後は3か月の製造実習の後、技術部門でカラーブラウン管の調整方法を大量生産でどのように行うかを研究してきました。1年後、人手による調整では限界があることを知り自動調整機の開発に取りかかりました。この時は上司から指示されて開発したというより、自分でやるべきことを見つけて自分の仕事として始めてしまったというスタイルでした。今から振り返ってみれば何でも自由に仕事ができる良い雰囲気の職場環境でした。「色純度調整機」「白バランス調整機」などを開発し、全世界のカラーテレビ工場で使用されました。
VTRを大量生産するための仕事をその後10年ほど担当しました。東京へ長期出張して8mmビデオカメラの設計にも携わり、チップ部品というコメツブよりも小さい部品をプリント基板に半田付けする高密度実装の仕事も2年間ほど行いました。
その後4年間担当した購入部品の品質保証の仕事では 抜取りによる受入検査、外注工場の工程改善そしてISO9000/14000の取得などの業務を担当し、現在のコンサルタントの仕事に大変役立っています。
天津講演風景
(写真:中国天津での講演風景(2006年))
Q.なかなか多くの職場を経験されたのですね。
A.今振り返ると5年に1回ぐらい職種が変わる経験をしたわけですから、あまり他に例がないケースだと思います。
1995年に1$=¥80の円高になりました。これをきっかけにカラーテレビを作るための部品を海外から調達して為替変動の影響を避けようという目的で国際調達の仕事を命ぜられました。台湾、韓国を含むアジアの各国からコストパーフォーマンスの良い部品を調達して製造原価を下げる仕事です。一年の短期間で一定の成果は上がりましたが、すぐに1$=¥140の円安になってしまい輸入のメリットがなくなり日本国内の部品調達を担当していました。2000年52才を過ぎた頃、タイのソニーの工場へ赴任を命ぜられ単身バンコクへ赴任しました。ここでも資材部長というポジションで資材調達を2年程経験しました。

Q.岐阜高専卒業生の就職ついては?
A.岐阜高専へお邪魔して卒業生の求人活動も10年以上させていただきました。勤務先が一宮で近いということもあって優秀な学生さんを長期にわたって採用させていただきました。

Q.何か学生にアドバイスすることはありますか
A.そうですね、やはり自分の意志というものが大切ですから、まず何になりたいか、何をやりたいかという意志を早い時期からしっかり持つことだと思います。小さい頃に肉親を病気で亡くし医者や看護師になったという話はよく聞きます。私の場合は小さいころから電気が好きで小学校の6年生の頃にはゲルマニウムラジオを組み立てていました。中学の頃にはインターホン、1石ラジオ、ステレオアンプなども作っていました。小学校の低学年のときには家業の仕立て屋を継ごうと思っていましたが、迷わず電気の道に進みました。自分の意志は具体的な方がいいですね。

Q.最後に どのような職業が今後有望なのでしょうか
A.日本の企業は世界一だ、なんて一部の幻想もありますが、政治的・社会的・経済的に日本はアメリカやヨーロッパ先進国の跡を追って同じ道を歩んでいます。またタイや中国に行ってみると日本の10~30年前の状況(社会現象・ビジネス・家族生活など)があらゆる面に残っており、日本の跡を追っていると言えます。今後発展する職業の選択も、企業規模の大小にかかわらず、アメリカやヨーロッパで成功しているものを選択すれば成功すると思います。繊維製品の製造が日本から無くなってしまったように、電気製品の製造は日本から無くなりつつあります。
岐阜高専の学生のみなさんへのアドバイスを一言、自分のなりたい姿をイメージして、それが実現するように強い意志をもって毎日を過ごしてください。 以上です。

アメリカ駐在から得た教訓  (E01)高津正吉 [『電苑2012』より]

私のアメリカ駐在時に「湾岸戦争」がありました。1990年8月イラク軍が隣国クエートに侵攻したのを受けて、国連安保理はアメリカ軍を主体とした多国籍軍(米独仏英濠等34カ国)を編成し1991年1月にイラク攻撃を開始、3月に停戦。この間、戦艦ミズーリから発射されるトマフォークや砂漠から発射されるパトリオットミサイルの映像が毎日TVで放映され、まるでSF映画を見ているようとの声もありました。一方で、私が住んでいた地域の所々の家には“黄色い旗“が掲揚され、家族が戦争に行っていることを無言に告げていました。

そんなおり、米国人の仲間は、「何故日本は多国籍軍に加わらないのだ?」、「アメリカは“正義”を守っているのに何故賛成しないのか?」等と聞いてきた。いや、詰め寄ってきた。日本の“立ち位置”が問われ、私も意見を求められた。しかしながら、日本は憲法で軍隊を持っていないことや交戦権を禁じていることを日本の歴史を踏まえて説明することが出来ず、彼は“お前には意見がないのか”と不審がられ、“信用できない”との顔つきで離れていきました。

小学校に通う息子からは、毎朝アメリカ国歌を斉唱して授業が始まるとか、南北戦争時の南軍の英雄リー将軍の物語を学んだことを聞いており、“自国への誇り”や“歴史“にあまりにもノーテンキで知識の浅さを思い知ることになりました。これを機に、連日報道される戦争記事を現地紙(Charlotte Observer)で注視するようになり、戦死者が米軍約300人、英軍約50名はじめ多国籍軍約40名に上ったことを知りました(私の記憶)。このとき、彼は自らが“血を流す”ことを厭わないくらいの覚悟で詰め寄ってきたのでは?と一瞬頭を過ぎり、私が“立ち位置“や”考え”を発信できなかったことを悔やんだ覚えがあります。

帰国後もこれが脳裏に残っており、「自分達は何者なのか?」、「自国の成り立ちとは?」を問い直す試みに、現代日本の基礎となった“明治維新”以後の歴史に係わる物語や小説を読み始めました。特に、「福翁自伝」(福沢諭吉)・「坂の上の雲」(司馬遼太郎)・「昭和史」(半藤一利)等は連綿として続いてきた私達日本人の精神(DNみたいなモノ)や特有の考え方が活写されており、自らと対話しながら思考を深めていくことができる材料と思っており、今でも拾い読みしています。 これから諸外国の人たちとビジネスする機会が増える皆さんにも是非歴史を学び直して欲しいと思っています。それは“人間としての見識と人格”を創ることであり、現地の人との信頼関係を醸成し、仕事の成果につながっていくものと確信しています。

八木アンテナ(株)牧野儀邦社長(E04 1971卒)インタビュー[『電苑2012』より]

牧野社長岐阜高専・電気工学科を1971年に卒業され、国際電気株式会社(現、株式会社日立国際電気)でご活躍後、2008年4月から八木アンテナ株式会社で取締役社長をされている4期生の牧野儀邦様にお話を伺いました。
訪問日:2012年5月11日
場所:八木アンテナ株式会社・応接室(千代田区神田/秋葉原 UDX ビル)
訪問者:大江(E02)・坂井(~E03)・桜井(E05)

(M:牧野社長、S:坂井、O:大江、K:桜井)

O/S/K:さっそくですが、本日はよろしくお願いします。
S:岐阜高専では来年の11月の10日または16日に創立50周年の記念式典をやることになっています。50周年記念事業実行委員会ができて、その委員長が1期の高津さんで、2期の奥野さんも実行委員会に入っておられます。また、全科の同窓会の若鮎会では今年から2年間、私が会長をやることになっています。
50周年関連の情報では、この所先生の資料(5月3日合同クラス会で配布の資料)にありますように、奨学金を準備したり、いろいろなことをやりますよということが書いてあります。また、大江さんも母校で週に2コマほど非常勤をやっておられますけど、OBによる講義・講座などの非常勤講師も募っておられます。
電気では、このあいだメールに書かせていただきましたが、ホームページに所先生が、「2012年に電苑をつくるぞ」ということになっていて、それじゃ記事をということで、牧野さんにもぜひそこにご登場を願おうと。
電苑の最後は、こういうのが発行されているのですが、お持ちですか(電苑2006のCDを見せて)。
M:持っています。
S:やっぱりね。これがラストです。このあいだの合同クラス会では、33号まで全部を持っていってみんなで懐かしく見たんです。このあと、2012年というのを今年作らなければいけないということになっているんです。ということで、今日はご無理をいって。
M:事前にご質問をいただいていたので、略歴[註1]だけは簡単に書いておきました。これは会社の紹介パンフレットです。私は、(昭和)46年卒で4期です。国際電気に入社です。
S:2(大江)、3(坂井)、4(牧野)、5(桜井)ですね。
M:会社に入ったときはニクソンショック、オイルショックで世界的に不況、会社は赤字、「君たちはいらない人間だ」といわれて会社に入ったんです。最初の年なんて草むしりもしていました。最初は製造部に行って色々な事をやりました。組立配線・調整試験などを6、7年やっていました。ちょうどトランジスタからICへの切り替わり時期で、勉強しながらやっていたというのがそのころの記憶です。
(昭和)53年ころ、1年くらい日立に出向していました。1年やって戻ってきてもこの設計を・・・。
S:大みかのプラントコントロールですか?
M:大みかのコンピュータの開発に入ってやっていました。何もわからなくて勉強しながらでした。
S:大変なところに行かれたんですね。
M:みんな夜遅くまで帰らない人ばかりですね、そのころは。国際電気に戻ってから(昭和)53年から3年くらい無線でデータ伝送する無線機システムの設計を担当しました。その関係で日本全国の製鉄所とか製油所に年の半分くらい出張していました。
(昭和)56年から、無線端末の設計ということで、最初にまとめたのが「パーソナル無線機」でした。
K:これは免許のいらないものですか?
M:そうです。そのあと「ポケットベル」を自社で全部つくるということになって-このころは旨くいかなくて大変なときですね。
そのあと、「海外向けの携帯電話」をやれという話になって。アナログ携帯電話(AMPSとかTACS)の時代ですね。このときは更にひどくて、寝る時間がない位忙しかった。
平成2年に設計部長になって、確か43歳だったと思うのですが、丁度ポケットベルの端末の自由化で提案主体の製品開発でした。そのころですね、「ポケットベルでトップシェア」を取ったのです。その後が結構大変でした。

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